時間の熟成とは。
昨夜は知人の、オペラの舞台を見に行きました。
前回の舞台の時、「愛の賛歌」を歌うのと聞いていたのですが、
その時は残念ながら仕事で行けなかったので、
一週間程前、彼女に「今回は、愛の賛歌は歌わないの?」
と、軽い気持ちで不用意に聞いてしまったところ、、。
今回は「なんちゃら」というのをやるの。
私が聞いても????な難しげな聞き取れない(笑)言葉が返ってきたのですが、
※Francis Poulenc (フランシス プーランク)でした。。
なんとアンコールで、「愛の賛歌」が聞けたのです!!!!!やばい。
彼女が私の軽率な言葉に対して、舞台で歌ってくれたのです。
彼女のお蔭で避けていた、、視界にも入らなかったオペラも(恥)
ここの所心なしか近づき、
たまに肩を組んだりするような関係になってきました。
ときたまフランス語も口から出るようになり、、
自分でもびっくりしています。ういうい。
さて、、、
今日のお題は、時間の熟成についてなのですが、
禅僧で、芥川賞作家でもある玄侑宗久老師の、
「ベラボーな生活」禅道場の「非常識」な日々という昔読んだ本の中に、
「挨拶の力」というエピソードがあるのですが、
お題とリンクしてるご紹介しますね。
著者が道場に入って毎朝の庭の掃除の最中に、
自転車に乗りお寺の境内を「おはようございま~す」と、
毎朝丁寧に挨拶するお爺さんが、
「管長さん」というこの寺で一番偉い人だと気付いたのは、
著者が道場の生活にも慣れてきた5月頃、、、。
その管長さんは、毎朝同じコースを、同じ時間に自転車で散歩されている時、
いつも出会うお爺さんにも全く同じように、
「おはようございま~す」と、丁寧に挨拶されるのだが、
そのお爺さんは挨拶を返さなかったという。
そしてそれは3年続いた。
著者曰く、、
どれだけその事態が珍しい事か考えていただきたい。
答えない相手に挨拶し続ける事は、そう簡単に出来ないはずである。
「あんた、挨拶ぐらいしたらどうなんだ。」とか、、
人によっては「人間とは」などと説教する人もいるだろう。
しかし管長さんはまるで昨日の事を覚えてないとでもいうように、
相変わらず挨拶をし続けた。
しかし相手もさるものである。
不機嫌であったり悩んでいたり、なにか挨拶したくない事情があったとしても、
それが三年続くのは尋常ではない。
そして3年後のある朝、そのお爺さんは管長さんの挨拶に立ち止まり、
近づいてきて号泣したのである。。
三年間挨拶し続けたりそれを無視し続けた時間があって初めて、
そんな深い変化があったのだろう。。。
それ以後お爺さんは人が変わったように明るくなったらしい。。
このエピソードが、私の思う時間の熟成なのです。
私の事で言えば、、、
私がヨガに出会ったときは、ヨガがこんなにも奥深く哲学的であり、
真理であると思いもしなかったのです。
ただ私が小さい頃、母方の明治生まれの祖母が、
いつも縁側で「臨済宗」の蛇腹のお経を「どこでもいいよ、開いてごらん。」
と言って、開いた所を読み聞かせしてくれた事。
小さな種を私に植えてくれていた事、
その時はわからなくても時間の熟成と共に、その種が根をはり、
芽を出している事に何十年も長い時を経て気付いたりします。
この禅宗信徒日課要集は、、、
(父方は、浄土真宗なのですが、、日本人のややこしい所ですね(笑)
最初のページ??般若心経のみの活用でしたが、
先日ふと裏の蛇腹を見ると、
自然につらつらと、読めてる自分に驚きました。
ヨガの真理や哲学に通じる宗教感は、先達からじわじわと気付かぬ内に、
私にも流れていたのです。
その時には気付かなくても、時間の熟成と共に、
「ふと」あの時の、、と、思う事が、、、誰にでもあるのです。
そしてその積み重ねこそが、人生なのかもしれませんね。